よろこびの花を
わたくしごときがですが、ちょっと感じましたことを書き綴らせて頂きます。
「喜びの花を咲かせよう。その喜びの種をまこう。」とは、良くお聞きする言葉ですが、「喜びの花を咲かせよう。その喜びの種をまこう。」と言いましても、喜びの種をまくためには種が必要であります。
でも、種が手元にない種は自分では作れません。ではどうすれば手に入るか分からりません。
そしてその種をどうやってまいていいかも分からりません。ですが、仏法を、法話を、聴聞することで種は頂けます。
仏法を、法話を、聴聞することで、種はまけます。聴聞致しますことで、知らず知らずのうちに種を頂き。知らず知らずのうちにまいて行きます。
その種は、形あるものでもないし、こうやるんだという(自力の)行動でもありません。知らず知らずのうちに種は手にはいっておりまして、知らず知らずのうちに種をまいているわけです。
降りかかって来ますものをそのまま受け入れ、「直感」で行動を取っていく、それは取らせて頂く(他力)ことでしょう。
そうして、気が付けば、喜びの花は咲き、よろこびは頂けているのでありましょう。